2015年 04月 16日
映画「イミテーション・ゲーム」 |
チューリングは徹底して論理の人であった、というお話。
象徴的なのは同僚にランチに誘われるシーンで「ランチに行くぞ」というのが
「俺達はランチに行くけどチューリングくんも一緒に行かないか」に聞こえないのである。
決して理解不可能な”変わり者”であったわけではない。
論理的に筋が通らないことを汲みして理解しようという姿勢がないだけである。
主人公が徹底してロジカルであるとわかれば感情移入も容易い。
わたしにはチューリングの苛立ちや行動原理は共有でき、故に映画を愉しむことができた。
どうしてこんなにわかりやすいことが理解できないんだ?
主人公に感情移入でいない映画というのは見ていてつまらないものだ。
(どうやら沢木耕太郎氏には、理解不能な変わり者で感情移入できない主人公であったらしい。しかし、朝日の夕刊ではつまらなかったとは言えないらしい。
そんな映画が高評価を得るわけがないのさえ理解出来ないのが滑稽なほどである。
しかし、明らかにネタバレを含んでいるのは許されるのだろうか?)
精神分析的アプローチだと、これほど理解しやすい人物はいない。すべてに理由付けが可能だからである。フロイドなど、その辺を歩いていて蹴躓くことにすら理由づけしたくらいだ。
プロジェクト唯一の女性メンバーである婚約者のジョーンの存在理由も簡単で、単純にプロジェクトに有用な人物であり、チューリングから価値観を共有できる同じ素養の同類であるがゆえに、愛情を感じることができる対象としての存在である。そして、それはむしろセックスによらない近親者に感じるのに近い人類愛にも似た愛情表現である。むしろチューリングの愛情表現を際だたせるために聡明で美しい女性であると設定を持ち込んだのではないか?自分にはこの女優さんはツボであった。優れた頭脳を持つ人物を正当に評価できるのはそれ以上の頭脳の持ち主(パズルに関してはチューリングより速い」!)であるというある種当然のロジックが展開される。
だから、終盤のチューリングにも人間らしい側面があったかのような演出はむしろ違和感があった。
そうするとチューリングが同性愛者であったことも容易に説明できる。おなじ生殖器官持つ同士で共有できる快感でしか性愛を理解できないのである。シンメトリーにこだわるのは給食のエピソードにも象徴されている。タチーネコの関係ではなく、相互オナニーのような性交が想像しうる。
チューリングが理解されなかったのは、天才的な頭脳の持ち主であったからではない。
徹底してロジカルであるがゆえに、徹底してロジカルな思考ができない側から理解できなかったからである。その上に、例えば、5層ぐらいにネストしているif文の1,2層目を自明として省略して3層目から展開されるのだから常人には全く理解できない。
ゆえに最終的な協力者が祖国の為に戦う軍人ではなく(二重スパイをも許容しうる)徹底した冷酷な功利主義者であるMi-6のメンバーであったのだ。
そういう意味ではどこまでもロジカルな映画である。
演出も悪くない。暗号解読のロジックや、コンピューターの仕組みを説明してみせるということを一切排し、純粋文系でも違和感なく映画に入っていけるよう工夫がされている。
個人的には2進なのか16進なのか、その辺の原理的なものの説明が欲しかったのだが。
この映画に一つ難があるとすれば、あえて映画館で見る必要のない映画であるという点だ。大画面である必要も、音響設備が整っている必要もほとんど無い。
下書きを終えたところでタイミングよく以下のニュース
by k1right
| 2015-04-16 00:00
| 映画
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