2015年 04月 13日
子供社会における”グループ”という厄介な概念 |
子供社会における”グループ”というのはインフォーマルでヤクザに近い概念なのだが
抜けた先に受け入れ先がない(-->ぼっち)。”堅気”にあたる属性が用意されていないし、そもそもグループそのものが明確に可視化されていない。
また、入るのは自らの意志だが、抜けるのにはある種の儀式がある(ヤクザにおける指詰めに相当するが、グループにより儀式の内容は異なり、やはり可視化されていない)。
当然、教員からは見えない。単なる仲良しグループや、普段つるんでいる連中といった認識にしかならない。
学校内には別途フォーマルなグループ(クラス、部活)があり、
子供らはオフィシャルな場では相応の役割を果たしている。
”グループ”間には基本的に人員の交流はない。
”いじめ”が明確に犯罪的であると認定されたことで、ハブるのはいじめの一種であると可視化されたため、逆にそれが”グループ”化を進め「あの子は違う”グループ”だから」との発言がそれを象徴する。
暴走族とも不良グループと決定的に異なるのは、抜けた先の所属が存在しないこと。
例えばクラスにA・B・Cの”グループ”があるとする(実際には4,5人で構成されることが多いので数はもっと多い)。
A・B・Cのいずれにも属さない者は”ぼっち”と認定される。
一度”ぼっち”と認定されると、そもそもいずれの”グループ”に属していないことから”ぼっち”に認定されることなので、既存の”グループ”に属し直しすることは出来ない。
ゆえに”ぼっち飯”は否定されるべきことで、”ぼっち”認定を避けるために便所飯へと至ると考えられる。
”ぼっち”を隠すのは、まだ”ぼっち”認定されていない不確定な存在であることをアピールし、いずれどこかの”グループ”へ所属することを渇望している故である。
一度ラベリングされた属性は自己の努力でどうにかなるものではなく、どこかの”グループ”に吸収されるまで外れることはない。
大人視点では、”グループ”のリーダーに取りいればいいようなものであるが(ヤクザ組織で言えば他の組の親分)、”グループ”におけるリーダーというのは、固定化された役割ではなく、むしろ流動的で容易に入れ替わる存在なので、取りいったところでグループ内への影響力は不透明である。運が良ければ”グループ”への加入が許可されることもあるだろうが、逆に取り入ることで、さらに”ぼっち”属性が強化されることもありハイリスクな行為となり容易には実行し得ない。
最も簡単な解決策は部活やサークルに属することだと考えがちだが、川崎のケースのように、一度部活を抜けてしまうと、ふたたび部活に戻ることは、部に属する側が許容しないため、簡単に見えて、もっとも困難な解決策である。そもそも部活を抜ける際に何らかの理由があったはずで、それも同時に解決する必要がある。
例えば、野球部をやめたら、陸上部に入れればいいのだが、野球部をやめざる得なかった理由が解決されることと、陸上部の構成員(生徒だけではなく教員、場合によっては保護者も関係するケースも有る)から許しを得る必要がある。野球部をやめた理由は陸上部を辞める理由にもなりえるので容易に同じトラブルを起こすことが想像でき、簡単に移り変わるわけにはいかないのである。
そこで、そのような半端な存在を受け入れるグループが必要になり、それが半端者や他のグループから排除されたものが集うグループの存在理由であり、そのような者には必須な存在となる。でなければ”ぼっち”しか残されていない。
必然的にそのグループの性格は好ましいものとは成り得ない。
この厄介な”グループ”が、子供らにとっては家庭を除く世界の全てである。
現時点で私には解決策も提案も何もない。
まずは概念としての”グループ”を可視化するのが第一歩である。
パラドシカルであるが、見えない”グループ”が存在していることを認識することが、つまり、見えていないことを認識するのが可視化の第一歩である。
2015/06/17追記
困った・・・。ここまでわかっていない精神科医がいるとは。
ニッチな得意分野を持てばいいということだが、それを理由に新たないじめが発生するということが全く理解できていない。例えば”虫博士”は、”虫博士”なんてきもい、という理由で、虫が好きだけでさほど詳しくない連中から、妬みも含め、いじめの対称となるのである。だから厄介なのだが。
by k1right
| 2015-04-13 00:00
| 臨床心理学
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